1945年に天皇が残った理由は、1945年だけを見ても分からない。 天皇は、政治権力そのものではなく、政治権力に正統性を与える装置として、 古代から何度も作り替えられてきた。
1945年、国家は敗れ、軍は解体され、帝国憲法も終わった。しかし天皇は、統治権者ではなく「象徴」として残った。
このページでは、敗戦直後の政治判断だけでなく、古代から続く「権威」と「実権」の分離にさかのぼって読む。
ヤマト王権は、列島全体を最初から一元支配した近代国家ではない。畿内を中心とする有力首長連合が、古墳、祭祀、外交、軍事、渡来系技術を通じて優位を広げていったものとして見る。
軍事力だけでは、支配の継続は説明できない。王権は、自分たちがなぜ中心であるのかを説明する物語を必要とした。
律令国家は、唐風の制度を取り入れながら、列島の支配を整理しようとした。戸籍、税、官僚制、都、法は、王権を制度化するための装置だった。
ヤマト王権では、列島の中心を示す王だった。
律令国家では、制度の頂点に置かれた。
そして承久の乱では、その構造が大きく揺らいだ。後鳥羽上皇は鎌倉幕府を倒そうとしたが、幕府側に敗れた。
ここで重要なのは、朝廷側が敗れたことだけではない。武家は、天皇と朝廷そのものを廃さなかった。実権は武家へ移ったが、正統性を与える権威は残された。
武家政権では、天皇は実権の外側で、将軍や幕府に正統性を与える存在になった。
明治国家では、近代国家の主権者として再構成された。
そして1945年後は、統治権を失い、象徴として残った。
変わらなかったから残ったのではない。変わり続けたから、消えずに残った。
日本史では、実際に政治を動かす主体が天皇の外へ出ることが繰り返された。摂関政治、院政、武家政権、明治国家、戦後体制はすべて異なるが、正統性をめぐる構造には連続性がある。